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小森 忍
(以下は江別市の公式サイトより)
明治の末から大正の初めにかけて、浜田庄司や河井寛次郎といった、のちに有名になった陶芸家と共に京都市立陶磁器試験場につとめた陶芸家に、小森忍という人物がいる。 小森は明治22年に大阪の本覚寺住職の次男として誕生。6歳で父と死別し、19歳で小森家の養子となった。大阪高等工業学校窯業科を卒業した小森は、京都の陶磁器試験場に入り、場長から特に中国古陶磁器の研究を命じられた。小森は釉薬(ゆうやく)の研究で優れ、浜田はその著『無盡蔵』で「小森はどんな品物を見ても、見たとたんに、これは化学式ならばこうだろう、パーセンテージに直せば原料的にこうだろうと語った」と書いてある。 その後、満鉄中央試験所を経て小森陶磁器研究所を創設。名古屋製陶所につとめたのち、昭和16年7月、今の上野市外山に(財)佐那具陶磁器研究所(略称 =陶研=)を設立し、所長、理事長に就任し、中国倣古陶磁器の研究に没頭した。所員は10名前後で、その中に上野市西高倉の日根野作蔵がいた。日根野は陶磁器のデザイナーとして、伊賀焼の発展と、特に美濃地方の若手の育成に尽した人である。 陶研での作品は、一般向けの製品には「府中窯製」美術工芸品には「文彬亭造」と打込まれている。小森はこの陶研に18年5月までのわずか1年10ヶ月間しか在任しなかったが、その作品は今も佐那具町のK家などに残されている。 18年7月、東京三越百貨店で開かれた日本陶磁器工芸品技術保存協会の第1回試作品展に、小森(府中窯)は、黒釉鉢、青磁飾壷、紅魚紋花鉢の三点を出品。三重県内からは、他に作家岸宏子氏の伯父・岸園山、上野市の菊山当年男ら四人が出品した。 その後、満州に渡ったが終戦で本土に脱出。昭和24年、新天地を求めて北海道の江別に移った。土と炎に取り組み、陶磁に関して、美術家、科学者、研究者として栄光と挫折、孤独に戦った小森は、やきものブームの到来を見ずして、昭和37年9月4日、北郷の地・江別で静かに息を引き取った。享年72歳であった