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瑪瑙石瑪瑙石

瑪瑙石


北海道今金採取。この石は姿が良く、飴状石態と言い銘石です。台座も上等。



  • 左右の幅(広い部分寸法)16cm 奥行き(厚い部分)11cm 高さ20cm 重さ3Kg

  • 販売価格45,000円
    (送料別。消費税込み)


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今 東光(こん とうこう)


不立文字


  • 軸全体の大きさ 63cm×102cm
  • 紙面の大きさ51×18cm 巾19、5cm
  • 紙本 桐箱

販売価格98,000円
(送料別、消費税込み)


作家情報



幸太郎石


この石は北海道沙流郡の幌尻岳の麓でとれる石です。現在は国の規制により採取することは出来ません。幸太郎石の石名は、最初に採取した人名から命名されたとありますが、詳しくは分かりません。 本品は銘石です。この石の姿は遠山抱湖と言う石の姿の、典型的形です。また硬質の幸太郎石は少ないです。



  • 左右の長さ40cm
  • 奥行き(厚さ)広い部分15cm
  • 高さ15cm
  • 重さ7.8Kg


  • 台も良く石にあい上等。


    販売価格  58,000円(送料別。消費税込み)

今 東光(こん とうこう)


明治31年(1898)生〜昭和52年(1977)没。横浜市出身。
宗教家(中尊寺貫主)。小説家。
明治36年(1903)函館市遺愛女学校付属幼稚園に入園。明治37年(1904)函館市立弥生尋常小学校に入学。弟の初代文化庁長官で、直木賞作家の今日出海は函館でうまれた。翌年小樽に転居、小樽市立平宮尋常小学校に転入学。明治39年横浜に転居。昭和31年(1957)「お吟さま」で直木賞受賞。

小森 忍


(以下は江別市の公式サイトより)
明治の末から大正の初めにかけて、浜田庄司や河井寛次郎といった、のちに有名になった陶芸家と共に京都市立陶磁器試験場につとめた陶芸家に、小森忍という人物がいる。 小森は明治22年に大阪の本覚寺住職の次男として誕生。6歳で父と死別し、19歳で小森家の養子となった。大阪高等工業学校窯業科を卒業した小森は、京都の陶磁器試験場に入り、場長から特に中国古陶磁器の研究を命じられた。小森は釉薬(ゆうやく)の研究で優れ、浜田はその著『無盡蔵』で「小森はどんな品物を見ても、見たとたんに、これは化学式ならばこうだろう、パーセンテージに直せば原料的にこうだろうと語った」と書いてある。 その後、満鉄中央試験所を経て小森陶磁器研究所を創設。名古屋製陶所につとめたのち、昭和16年7月、今の上野市外山に(財)佐那具陶磁器研究所(略称 =陶研=)を設立し、所長、理事長に就任し、中国倣古陶磁器の研究に没頭した。所員は10名前後で、その中に上野市西高倉の日根野作蔵がいた。日根野は陶磁器のデザイナーとして、伊賀焼の発展と、特に美濃地方の若手の育成に尽した人である。 陶研での作品は、一般向けの製品には「府中窯製」美術工芸品には「文彬亭造」と打込まれている。小森はこの陶研に18年5月までのわずか1年10ヶ月間しか在任しなかったが、その作品は今も佐那具町のK家などに残されている。 18年7月、東京三越百貨店で開かれた日本陶磁器工芸品技術保存協会の第1回試作品展に、小森(府中窯)は、黒釉鉢、青磁飾壷、紅魚紋花鉢の三点を出品。三重県内からは、他に作家岸宏子氏の伯父・岸園山、上野市の菊山当年男ら四人が出品した。 その後、満州に渡ったが終戦で本土に脱出。昭和24年、新天地を求めて北海道の江別に移った。土と炎に取り組み、陶磁に関して、美術家、科学者、研究者として栄光と挫折、孤独に戦った小森は、やきものブームの到来を見ずして、昭和37年9月4日、北郷の地・江別で静かに息を引き取った。享年72歳であった

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