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大正元年(1912)岩手県生まれ。
彫刻家。文化功労者。享年89歳。盛岡中学、東京美術学校(現・東京芸術大学)彫刻科を卒業。
1950年に盛岡のカトリック四ツ家教会でカトリックの洗礼を受く。その後は、一貫してカトリック信仰を作品の中心課題におき、人間の内面を凝視した、崇高で清潔な作風を確立した。 1962年に完成するまで5年の歳月をかけた「長崎26聖人殉教者記念像」で高村光太郎賞を受賞されました。また島原の乱に着想を得、10年かがりで制作した「原の城」は1972年に中原悌二郎賞を受賞し、その後バチカンに送られ、翌1973年には教皇パウロ6世から大聖グレゴリオ騎士団長勲章を授与されています。 1986年からは東京芸術大学名誉教授を務めておられましたが、1987年、脳梗塞でお倒れになり、右半身が不自由になりましたが、左手で制作を続けていらっしゃいました。昭和52年(1978)北海道釧路市幣舞橋の作品『春』で長谷川仁記念賞を受賞。
彫刻家。文化功労者。享年89歳。盛岡中学、東京美術学校(現・東京芸術大学)彫刻科を卒業。
1950年に盛岡のカトリック四ツ家教会でカトリックの洗礼を受く。その後は、一貫してカトリック信仰を作品の中心課題におき、人間の内面を凝視した、崇高で清潔な作風を確立した。 1962年に完成するまで5年の歳月をかけた「長崎26聖人殉教者記念像」で高村光太郎賞を受賞されました。また島原の乱に着想を得、10年かがりで制作した「原の城」は1972年に中原悌二郎賞を受賞し、その後バチカンに送られ、翌1973年には教皇パウロ6世から大聖グレゴリオ騎士団長勲章を授与されています。 1986年からは東京芸術大学名誉教授を務めておられましたが、1987年、脳梗塞でお倒れになり、右半身が不自由になりましたが、左手で制作を続けていらっしゃいました。昭和52年(1978)北海道釧路市幣舞橋の作品『春』で長谷川仁記念賞を受賞。
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明治28年(1895)生〜昭和48年(1973)没。
全道展創立会員。国画会会員。日本版画協会会員。
横浜市出身、東京育ち。第二次世界大戦の戦火を逃れ、婦人の実家の有る北海道勇払郡追分町に移住。後白老に住む。北海道には昭和20年(1945)から昭和23年12月まで住んだ。その間、苫小牧中学校(苫小牧東高等学校)で英語を教える。昭和20年(1945)全道展創立委員。北海道の美術界発展に貢献した。北海道風味の版画本を作った。名本「河童暦」「北海道絵本」を共著した詩人更科源蔵夫人は川上夫人の妹。
全道展創立会員。国画会会員。日本版画協会会員。
横浜市出身、東京育ち。第二次世界大戦の戦火を逃れ、婦人の実家の有る北海道勇払郡追分町に移住。後白老に住む。北海道には昭和20年(1945)から昭和23年12月まで住んだ。その間、苫小牧中学校(苫小牧東高等学校)で英語を教える。昭和20年(1945)全道展創立委員。北海道の美術界発展に貢献した。北海道風味の版画本を作った。名本「河童暦」「北海道絵本」を共著した詩人更科源蔵夫人は川上夫人の妹。
愛知県瀬戸市の『瀬戸(セト)ノベルティー』とは
ノベルティー (Novelty) は目新しい趣向を凝らしたもの、新奇な商品という意味を持ちます。
瀬戸では陶磁器製の置物等を総称して呼びます。
その生産の起こりは、明治時代後期にさかのぼり、瀬戸地域から採掘される真っ白な磁土が生み出した産物です。
ノベルティーは 生産しているほとんどが輸出されて、「セト・ノベルティー」と言えば世界中にその名が知られており、瀬戸地域は日本最大のノベルティー生産地となっております。
小野 洲一
昭和2年(1927)生〜 平成12年(2000)没。 北海道千歳市出身
全道展会員 自由美術協会会員 北海道近代美術館賞受賞
教師であった父三男と母美可の一男五女の長男として生まれる。
昭和20年(1945)北海道庁立札幌第一中学校(北海道立札幌南高等学校)卒業。
海軍幹部養成校に入学するが終戦。野幌林業試験所、雪印乳業、雪印薬品に勤務して
昭和28年(1953)やめ、画業に専念する。
昭和36年(1961)東京在住の北海道出身の抽象画家のグループ「北象会」を結成する。メンバーは難波田龍起、上野憲男、赤穴弘、八木保次等。
昭和43年(1989)から昭和46年(1971)多摩美術大学非常勤講師。
渡仏。昭和56年(1980)北海道富良野市下御料文化村に住宅をたて夏、冬を過ごす。
一生旺盛な創作活動をした。