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今 東光(こん とうこう)
明治31年(1898)生〜昭和52年(1977)没。横浜市出身。
宗教家(中尊寺貫主)。小説家。
明治36年(1903)函館市遺愛女学校付属幼稚園に入園。明治37年(1904)函館市立弥生尋常小学校に入学。弟の初代文化庁長官で、直木賞作家の今日出海は函館でうまれた。翌年小樽に転居、小樽市立平宮尋常小学校に転入学。明治39年横浜に転居。昭和31年(1957)「お吟さま」で直木賞受賞。
小森 忍
(以下は江別市の公式サイトより)
明治の末から大正の初めにかけて、浜田庄司や河井寛次郎といった、のちに有名になった陶芸家と共に京都市立陶磁器試験場につとめた陶芸家に、小森忍という人物がいる。 小森は明治22年に大阪の本覚寺住職の次男として誕生。6歳で父と死別し、19歳で小森家の養子となった。大阪高等工業学校窯業科を卒業した小森は、京都の陶磁器試験場に入り、場長から特に中国古陶磁器の研究を命じられた。小森は釉薬(ゆうやく)の研究で優れ、浜田はその著『無盡蔵』で「小森はどんな品物を見ても、見たとたんに、これは化学式ならばこうだろう、パーセンテージに直せば原料的にこうだろうと語った」と書いてある。 その後、満鉄中央試験所を経て小森陶磁器研究所を創設。名古屋製陶所につとめたのち、昭和16年7月、今の上野市外山に(財)佐那具陶磁器研究所(略称 =陶研=)を設立し、所長、理事長に就任し、中国倣古陶磁器の研究に没頭した。所員は10名前後で、その中に上野市西高倉の日根野作蔵がいた。日根野は陶磁器のデザイナーとして、伊賀焼の発展と、特に美濃地方の若手の育成に尽した人である。 陶研での作品は、一般向けの製品には「府中窯製」美術工芸品には「文彬亭造」と打込まれている。小森はこの陶研に18年5月までのわずか1年10ヶ月間しか在任しなかったが、その作品は今も佐那具町のK家などに残されている。 18年7月、東京三越百貨店で開かれた日本陶磁器工芸品技術保存協会の第1回試作品展に、小森(府中窯)は、黒釉鉢、青磁飾壷、紅魚紋花鉢の三点を出品。三重県内からは、他に作家岸宏子氏の伯父・岸園山、上野市の菊山当年男ら四人が出品した。 その後、満州に渡ったが終戦で本土に脱出。昭和24年、新天地を求めて北海道の江別に移った。土と炎に取り組み、陶磁に関して、美術家、科学者、研究者として栄光と挫折、孤独に戦った小森は、やきものブームの到来を見ずして、昭和37年9月4日、北郷の地・江別で静かに息を引き取った。享年72歳であった
彫刻家。文化功労者。享年89歳。盛岡中学、東京美術学校(現・東京芸術大学)彫刻科を卒業。
1950年に盛岡のカトリック四ツ家教会でカトリックの洗礼を受く。その後は、一貫してカトリック信仰を作品の中心課題におき、人間の内面を凝視した、崇高で清潔な作風を確立した。 1962年に完成するまで5年の歳月をかけた「長崎26聖人殉教者記念像」で高村光太郎賞を受賞されました。また島原の乱に着想を得、10年かがりで制作した「原の城」は1972年に中原悌二郎賞を受賞し、その後バチカンに送られ、翌1973年には教皇パウロ6世から大聖グレゴリオ騎士団長勲章を授与されています。 1986年からは東京芸術大学名誉教授を務めておられましたが、1987年、脳梗塞でお倒れになり、右半身が不自由になりましたが、左手で制作を続けていらっしゃいました。昭和52年(1978)北海道釧路市幣舞橋の作品『春』で長谷川仁記念賞を受賞。
全道展創立会員。国画会会員。日本版画協会会員。
横浜市出身、東京育ち。第二次世界大戦の戦火を逃れ、婦人の実家の有る北海道勇払郡追分町に移住。後白老に住む。北海道には昭和20年(1945)から昭和23年12月まで住んだ。その間、苫小牧中学校(苫小牧東高等学校)で英語を教える。昭和20年(1945)全道展創立委員。北海道の美術界発展に貢献した。北海道風味の版画本を作った。名本「河童暦」「北海道絵本」を共著した詩人更科源蔵夫人は川上夫人の妹。
愛知県瀬戸市の『瀬戸(セト)ノベルティー』とは
ノベルティー (Novelty) は目新しい趣向を凝らしたもの、新奇な商品という意味を持ちます。
瀬戸では陶磁器製の置物等を総称して呼びます。
その生産の起こりは、明治時代後期にさかのぼり、瀬戸地域から採掘される真っ白な磁土が生み出した産物です。
ノベルティーは 生産しているほとんどが輸出されて、「セト・ノベルティー」と言えば世界中にその名が知られており、瀬戸地域は日本最大のノベルティー生産地となっております。