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片岡 珠子
明治38年(1905)生〜平成20年(2008)没 札幌市出身
日本美術院同人 日本芸術院会員 恩賜賞授章 文化勲章授章 文化功労賞授章 その他賞多数。
師安田靫彦。北海道庁立札幌高等女学校(北海道立札幌北高等学校)卒業後、女子美術学校(東京女子美術大学)
日本画科卒業。生家は醸造家であり材木商も営んでいた。
美術学校卒業後は小学校教員、女子美術大学、愛知県立大学の教授として長い間教育にも情熱を注いだ。
平成20年(2008)1月22日の北海道新聞社会面に大見出しで「落選の神様」「日本画に新風」と逝去の報を伝えている。
公募展に連続落選しながらも精進し、日本画壇の頂点に立ち、日本美術界に新風をもたらし、画壇を導いた。昭和41年(1966)からの「面構え」シリーズ、「富士山」は代表作。
生前、北海道立近代美術館に作品21点を寄贈した
(詳しくは北海道新聞、平成20年1月23日、奥岡茂雄筆「個性美 培った北海道」)
森本 光子
大正12年(1924)生〜平成18年(2006)歿。小樽市出身
道展会員。
兼平英示に師事。
昭和25年道展で北海道新聞社賞受賞。昭和29年(1954)夫森本三郎と初めて二人展
を開催、それ以降ほとんど二人展の形式で作品発表する。
小樽昭和高等学校(小樽明峰高等学校)にて5年間専任講師。昭和48年(1973)
一切の公募展から身を引き、道展会員も退会。小樽運河保存運動に尽力したり、
小樽商科大学で「小樽学」講師も務めるなど、郷土小樽の美術のために尽くした。
平成19年(2007)7月小樽市立美術館にて「追悼 森本光子展」開催。
青山 義雄
明治27年(1894)生〜平成8年(1996)歿。神奈川県横須賀市出身
国画会客員。春陽会会員(後に辞退)同会の昭和奨励賞受賞。中村彝賞受賞。
フランス滞在中巨匠マティスに師事、薫陶を受ける。明治30年(1902)から明治43年(1910)まで13年間北海道根室に住す。
大正2年(1913)再び北海道根室市に戻って鮭の人工ふ化場で検卵の仕事、昆布からヨードを取り出す技師のような仕事、知床半島で鮭の密漁監視、高杉晋作の甥、武藤某が支配人をしていた根室牧場の牧夫、植別小学校の代用教員等をし、大正9年(1920)まで北海道に居住した。北海道滞在は19年間。
8歳から27歳まで、少年時代、青年時代の大部分を北海道で過ごしたことは、青山の画家人生に、フランス生活と共に大きな影響を与えた。
父義実、母なをの長男。父は海軍省の書記官。明治36年(1902)父の転勤により、三重県鳥羽より根室町立花咲小学校に転入。
明治39年(1906)年北海道庁立根室商業学校(北海道立根室高等学校)に入学が14歳(明治41年、1909)絵画に興味を持ち中退。
明治45年(1912)上京し、日本水彩画研究所に通う。大正10年(1921)フランスに渡る。
パリの日本人会館2階に住み込み、書記をかねながら、絵の勉強をする。フランス滞在中は日本からやって来る、多くの画家達の面倒を見た。林倭衛、硲伊之助、小出楢重、坂本繁二郎、土田麦僊、小野竹喬など。
また関東大震災後で東京で惨殺されたアナーキストの大杉栄もいる。
梅原龍三郎の推薦で、昭和13年(1938)第2回文部省美術展覧会(新文展)で審査員となる。審査員として根室を描いた「北洋落日」を出品。昭和55年(1980)札幌今井デパートで「南仏を描く 青山義雄展」開催。
その他個展多数回。昭和63年(1988)神奈川県立近代美術館にて「青山義雄—地中海的感性の詩人展」開催。
川喜田 半泥子 かわきた はんでいし
1878~1963)は、伊勢商人川喜田久太夫(きゅうだゆう)家十五代の長男として生を受けました。
本名は川喜田久太夫政令(まさのり)、幼名善太郎。
半泥子は幼くして両親と別れ、1歳で家督を相続し十六代久太夫を襲名することとなり、祖母・政や筆頭分家の川喜田四郎兵衛らから教育を受けました。
また祖母の勧めにより若くから参禅したことによって強靭な心身を会得し、商家の当主として、また百五銀行第六代頭取他数々の企業の要職をこなしました。
また先祖の意志を継いで地域振興の事業も手がけ、文化財団石水会館設立もそのひとつでした。その多忙な日常において、書画、茶の湯、俳句、写真など実に多彩な趣味を持ち、いずれに対しても形にとらわれない自由で伸びやかな姿勢で風雅に遊びました。
なかでも陶芸においては破格でした。本格的に陶芸をはじめたのは還暦が近くなってからのこと。
晩年の手紙に「子供の頃から焼物好の私が昭和八年ニ千歳山ニ窯を築いて二三万作った 又廣永で今迄ニ作った一万斗(ばか)りと合すと大分の数になる」と記しています。
戦前は自邸の千歳山に窯を築いて、中里無庵(1895~1985・十二代太郎右衛門)、荒川豊蔵(1894~1985)、金重陶陽(1896~1967)、三輪休和(1895~1981・十代休雪)、小西平内(1899~1991)といった若き陶工たちと交わって研究を重ね、戦後は津市郊外の広永に窯を移して会社組織の広永陶苑を設立、坪島土平(1929~)ほか若い弟子たちと作陶を楽しみました。
陶芸においてシロートであり続けた半泥子の遊び心あふれる陶芸作品は、趣味の域を越え、高い評価を受けています。
なお半泥子の号は禅の師の命名で、「半(なか)ば泥(なず)みて半ば泥まず」という意味です。
その他「無茶法師(むちゃほうし)」「莫加野(耶)廬(ばかやろう)」「鳴穂堂(なるほどう)主人」「紺野浦二(こんのうらじ)」「其飯(きはん)」「反古大尽(ほごだいじん)」などがあります。また「泥仏堂(でいぶつどう)」は轆轤場の名であり、号としても用いています。
大樋 長左衛門 おおひ ちょうざえもん
大樋焼き9代目。別号は芳土斉。芳土窯 日本工芸協会正会員。
1986年(昭和61年)84歳で没す。石川県出身。
明治34年(1901)生、金沢出身。石川県立工業学校窯業科卒。
前田家御用窯の大樋家8代父・宗春に作陶を学ぶ。1920年農商務省工芸展に初出品、入選。
1925年9月大樋長左衛門を襲名、大樋楽焼の窯元を継ぐ。
宮内庁茶室用品製作の用命を受ける。
1942年工芸技術保存作家に指定。
日本工芸会正会員。70年裏千家より淡々斎文化賞。
大樋焼独特の飴釉の他、黒茶碗にも秀作が多い。