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川喜田 半泥子 かわきた はんでいし
1878~1963)は、伊勢商人川喜田久太夫(きゅうだゆう)家十五代の長男として生を受けました。
本名は川喜田久太夫政令(まさのり)、幼名善太郎。
半泥子は幼くして両親と別れ、1歳で家督を相続し十六代久太夫を襲名することとなり、祖母・政や筆頭分家の川喜田四郎兵衛らから教育を受けました。
また祖母の勧めにより若くから参禅したことによって強靭な心身を会得し、商家の当主として、また百五銀行第六代頭取他数々の企業の要職をこなしました。
また先祖の意志を継いで地域振興の事業も手がけ、文化財団石水会館設立もそのひとつでした。その多忙な日常において、書画、茶の湯、俳句、写真など実に多彩な趣味を持ち、いずれに対しても形にとらわれない自由で伸びやかな姿勢で風雅に遊びました。
なかでも陶芸においては破格でした。本格的に陶芸をはじめたのは還暦が近くなってからのこと。
晩年の手紙に「子供の頃から焼物好の私が昭和八年ニ千歳山ニ窯を築いて二三万作った 又廣永で今迄ニ作った一万斗(ばか)りと合すと大分の数になる」と記しています。
戦前は自邸の千歳山に窯を築いて、中里無庵(1895~1985・十二代太郎右衛門)、荒川豊蔵(1894~1985)、金重陶陽(1896~1967)、三輪休和(1895~1981・十代休雪)、小西平内(1899~1991)といった若き陶工たちと交わって研究を重ね、戦後は津市郊外の広永に窯を移して会社組織の広永陶苑を設立、坪島土平(1929~)ほか若い弟子たちと作陶を楽しみました。
陶芸においてシロートであり続けた半泥子の遊び心あふれる陶芸作品は、趣味の域を越え、高い評価を受けています。
なお半泥子の号は禅の師の命名で、「半(なか)ば泥(なず)みて半ば泥まず」という意味です。
その他「無茶法師(むちゃほうし)」「莫加野(耶)廬(ばかやろう)」「鳴穂堂(なるほどう)主人」「紺野浦二(こんのうらじ)」「其飯(きはん)」「反古大尽(ほごだいじん)」などがあります。また「泥仏堂(でいぶつどう)」は轆轤場の名であり、号としても用いています。